第十二話/野蒜測候所/2004.11.15

 東北地方の官制気象観測の歴史は野蒜測候所(宮城県鳴瀬町野蒜)から始まった。気象関係者には有名な話である。その数奇な歴史は、当時の自然災害と社会とのかかわりを考えさせ興味深い。

 数年前、仙台管区気象台に勤務していたT氏と、野蒜測候所跡を探した。事前の下調べもなく、思いつきで車を走らせたため、なかなか見つからなかった。半ばあきらめて帰ろうとしたころ、林の中に碑文を見いだした。

 当初、測候所は仙台に開設するはずだった。ところが、当時の巨大プロジェクト「野蒜築港計画」のため、測候所は明治十四年に野蒜に開設された。内務卿大久保利通の決断で、横浜より十一年早く、日本で最初の近代的な大型港湾都市が野蒜に建設されるはずであった。オランダ人技術者の指揮の下、鳴瀬川の流路を変えて水路とし、野蒜海岸の沖合に宮戸島から延びる巨大な防波堤を建設する計画だった。

 土木や気象の関係者の報告によれば、この大計画に文字通り水を差したのは明治十七年の台風だったといわれている。観測データも限られ、天気図の復元もままならず、経過は必ずしも明らかではない。ともかく、明治十五年に完成した突堤が崩壊し、港は使用不能となった。

 開発に情熱を傾けた大久保は明治十一年に暗殺されて既にいない。港の機能維持のためには外港防波堤の建設が必要で、これには大きな経費がかかる。結局築港計画は中止された。野蒜での存在意義を失った測候所は、明治二十年に石巻に移転した。

当時の技術では野蒜築港事業は無謀な計画だったとされている。台風などの日本の気象もオランダ人技術者の想像を超えていたのかもしれない。間もなく、お雇い外国人土木技術者の時代は終わり、日本人技術者が活躍するようになった。野蒜の経験は以後の築港事業に大きな教訓となったといわれている。 (野蒜築港事業の経緯については興味深いホームページがたくさんあり、参考にしました。謝してお礼申し上げます)


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